●● 3日目(8月9日 木曜) 千国街道・古道を北小谷へ

今日の行程は国道(糸魚川街道)から完全に離れ姫川に沿って山岳地帯に入り「千国」を抜ける“千国街道”すなわち塩の道・古道に挑戦することになる。緊張のせいか早めに目が覚め、7:30には民宿【大志茂】を後にしていた。今日歩く行程は東京を発つ前に決めていたコースとは違って、大町の【塩の道博物館】で購入した“塩の道・古道案内書”に基づいて変更した道を歩くことになるので、チョット不安を感じていたのも事実である。
【宿の部屋から「五竜岳」を望む】

宿の前の駅前通りを「八方口」に向って少し上ると昨日歩いてきた道が左から出てくる交差点の所に来て今日はそこを右折することになる。今朝も日本晴れで気分を爽快にさせるが、すでに夏の強い日差しがアスファルト道路に燦々と降り注いでいる。交差点の脇には旧道を思わせる地蔵小屋があり、その側の自動販売機でお茶のペットボトルを購入し、リュックのサイドポケットに差込み、「さぁ、出発!」と自分に元気づけて塩の道を北に歩き始める。街道と並行に北アルプスの連峰が展開しているが、左手正面に白馬三山「白馬鑓ケ岳(2903m)」、「杓子岳(2812m)」、「白馬岳(2932m)」が雄大な姿を見せており、街道沿いに建つ民家の庭には色とりどりの花が咲き乱れ、のどかな田園風景を作り上げている。
【八方口の交差点に地蔵小屋が】
【花々を通して見る白馬三山】

暫く進むと「平川神社」を通過し道は緩やかに右にカーブして国道148号線にぶち当たり「松川橋」を渡る。橋の真ん中に来ると北アルプスの大パノラマが眼前に展開している。左から白馬三山、正面の「八方尾根スキー場」の先に「小蓮華山(2769m)」、その左に「白馬乗鞍岳(2469m)」が控えている。胸がス〜〜ットするような状景である。
【平川神社】
【くっきりと白馬三山が見える】

これからは暫く国道沿いに歩くが、大糸線「信濃森上」駅の付近に来ると再び千国街道は国道から左に折れて旧道に入り「新田」に向う。ここから一旦姫川から離れて山の中に入り栂池高原を横切って千国の集落を通過し再び姫川沿いに下りてくるのだが、今回の旅の一つの難所であろう。

【松川橋から白馬三山を】
【松川橋から五竜岳・唐松岳方面を】

暫く進むと道は大きな庄屋に突き当たるが、その入口の脇に【横沢本衛 生誕の地】と書かれてあったが、きっとこの集落の資産家の家なのだろう。ここから左に緩やかな上り道になるが、この小道がすばらしい。道の左に小川が流れていて紫陽花の花が小川に沿って咲いている。その川に沿って大きな桜の木が街路樹となっていて今は大きな日影を作ってくれている。川沿いに民宿が並んでいてそれぞれの民宿の玄関に入る橋が一定の間隔で小川を跨いでいる。きっと冬場には近くの「岩岳スキー場」に来たスキー客でこの辺は大いに賑わっているのだろう。

【横沢本衛の生誕の地】
【岩岳スキー場民宿の町並み】

この緩やかな上りはやがて「薬師堂」に突き当たる。それを右に曲がってすぐに“塩の道千国街道”と書かれた大きな道標が目に入り、その案内に従って急勾配の坂道を一挙に上がりきると、松林の中に「観音原」**が現れる。四角く開けた広場にぐるりと一周観音様が並んでいてその光景が興味高い。広場の前にあずまや作りの休憩小屋がありそこで一休み。

【薬師堂】
【塩の道・千国街道の立派な道標】
**【観音原】江戸末期の文化年間(1804〜1817)に
   近郷
の人々によって立てられたもので西国三
   十
三番、坂東三十三番、秩父三十四番を合
   わせて“百体観音”と馬 頭観音など合わせて
   187体が立ち並ぶ。
   高遠の石工の手によるもので、中央には四国
   88ケ所霊場の象徴的存在である弘法大師
   像が置かれている。
【観音原】

松林を抜けると暫く平坦な道が続き、道が三叉路になっているロータリー状の中央に火の見やぐらが立っていてそこが「切久保庚申塚」である。丁度三叉路の所に来ると大勢の小学生が民宿からゾロゾロと出てきて大いに賑わっていた。きっと夏の林間合宿の最中でこれから近くの運動場に出掛けるところなのだろう。この三叉路からすぐのところに「切久保諏訪神社」があった。ここから暫くは緩い上りになるが、周りを見渡すとどうやら冬場は一面スキーのゲレンデになっているようで夏は殺風景な一帯である。

【切久保庚申塚と子供たち】
【切久保諏訪神社】

やがて道は太い自動車道路に出るが、その角に【塩の道通り】の道標が立っていて歩いている者にはホットさせる。道標に沿って左折し今度は緩やかな下り道。暫く道なりに下りてゆくと自動車道は右にカーブするが、そこの曲がり始めの所に右に入る道がある。右に入ってすぐのところに「おかるの穴」と書かれた説明板が目に留まる。説明板の裏側奥の方は鬱蒼と雑草が生い茂げり沢に落ち込んでいるようで、川のせせらぎのような音が聞こえてくる。手元の地図によればこの奥に「楠川」が流れていて、自動車道が右に曲がったところには「瀬戸の橋」が架かっているらしい。“おかるの穴”とは一体どんな“穴”なのか興味津々に書かれている解説を読んだ。そこにはこう書かれていた。

【「塩の道通り」の標識】
【「おかるの穴」説明板】
   
   『嫁と姑の不和にまつわる話は、いくつかの悲劇を生んで語り伝えられている。これ

   もその哀れな話の一つ。

   むかしむかし、切久保部落に“おかる”という女がおりました。働き者で評判の嫁

   でしたが、姑との折り合いが悪く、いさかいが絶えませんでした。我慢ができなく

   なったおかるは、氏神様の宝物である七道の面の一つ、恐ろしい般若の面をかむっ

   て、姑を脅すことを考え付きました。ある夜半、おかるは面をつけて寝ている姑を

   脅しました。姑はあまりの恐ろしさに気絶してしまいました。おかるは誰にも気づ

   かれないうちに、面を返そうとしましたが、どうしたことか面は顔にくっついたまま、

   どうしても剥がれません。こんな顔を人に見られることはできません。おかるは白み

   かかった夜明けの道をひた走り瀬戸の渕にある洞穴に身を隠してしまいました。

   その後、人々はこの洞穴のことを誰言うと無く「おかるの穴」と呼ぶようになりました。

   (長野県 白馬村)』

読んでいるうちにキット“おかるさん”は絶世の美人なのだろうと思えてきて、それでは是非その穴まで行ってみたいと思ってはみたが、目の前に鬱蒼と生えた丈の高い雑草を切り分けて中に入ってゆく勇気は無かった。諦めて道を歩き始めると道は左に曲がり始めすぐに先ほどの自動車道路に出てしまう。おかしい? 古道の地図によればこの辺から右に山道へと入ることになっている。どこかに山に入る道が有るはずだと注意深く探すがビッシリと雑草が生い茂っており道らしいは入口が見つからない。何度自動車道路まで行っては戻りを繰り返したことだろう。何度目かにちょっと窪んだ所が見つかり、生い茂っている藪を押しのけてみると、何か道らしい空間がある。勇気を振り絞って思い切って藪の中に体を入れる。夢中になって藪を押し退けながら進むとスット視界が開け杉林に中に出て道らしい道が現れてホットする。しかしすぐに「これが本当に“塩の道”なのか?」と不安になる。そこで「よし10分ほど登ってみて、その時の状況で元に戻るか判断しよう」と決めてひたすら細い山道を登る。
【よし10分ほど登ってみよう】
【不安になりながら ひたすら歩く】

途中で何度か小道の分かれ道に出会うが、その角にどちらから来たかを戻ってきた時に分かるように小枝を目印に立て掛けておく。日が当たっている所に出ると道は完全に雑草に覆われてしまっていてまたまた不安になって来る。こんなところで野生の動物が現れたどうするか何て考え始めると自然と手に持っていた“登山用ステッキ”にグット力が入る。しばらく緊張気味に草の生い茂った登り道を行くと、先のほうに小さく“塩の道・千国街道”の道標がポツンと見えるでは有りませんか。「あ〜〜〜!助かった!」と胸を撫で下ろす。安心感は歩きのスピードを上げ一挙に登りきって自動車道路に出ると正面に「風きり地蔵」があった。赤い帽子をかぶったかわいらしい姿のお地蔵さんの脇で休憩をとることにするが、顔からは汗が滝のように落ちている。小さな日影を探し紫陽花の脇にリュックを下ろして、あの山道を間違いもせずよくも無事に登ってこられた事に感謝してお地蔵さんに向かってお礼の手を合わせた。

【草道の先のほうに道標が見えた!】
【風きり地蔵】

ここからは「落倉」の集落を右下に見て下り道になるが、集落が近づくと道は平らとなり、のどかの田園風景が広がり左手正面に「白馬岳」がクッキリと姿を現している。暫く行くと道はまた下りになり、正面に栂池のスキー場ゲレンデ斜面が見えてくる。「松沢」の集落に入ると「松沢薬師堂」のところから今度は上り坂となる。坂道が右に曲がる付近にレストラン、お土産や、民宿が密集しているが、【親の原スキー場】のリフトが道に突き出るように接近しており、冬のシーズンにはこの辺はスキー客で賑わっている一角なのであろう。民宿の2階窓から布団の虫干しをしようと顔を出していた女性に「塩の道はこちらの山道に入れば宜しいのでしょうか?」と聞くと、ニコニコ笑いながら「そこの左側の細道を真っ直ぐ上がって下さい」と腕を出して丁寧に教えてくれた。10分も歩くと細道は自動車道に出る。その辺を「松沢口」と言い、すぐ側にバスターミナルもあり、この辺ではチョット賑やかな商店街のようだ。まだ早朝なので人影は殆ど無い。薬局の脇にあった自動販売機で缶コーヒーを買って一休み。(9:30)

【落倉より「白馬岳」を】
【松沢薬師堂】

松沢口の十字路の先に「前山」の斜面を利用した小規模のスキーゲレンデの入口があり、そこが塩の道の入り口でもある。ゲレンデを横切るように行くとすぐに「前山百体観音」の所を通過する。この辺に来ると視界が開け眼下には松沢の集落が広がり、その先に北アルプスの霊峰がデーンと控えている。ゲレンデの片隅の斜面に鎮座まします百体観音様はいつもこの広大な眺めを正面にして四季折々の景色を楽しんでいるのだろうか。それとも冬場は雪にスッポリ覆われてしまって、ここはスキー用斜面になってしまっているのだろうか。

【前山百体観音】
【松沢を見下ろす観音様】

暫く街道は山裾に沿って走っており大きな木々が日陰を作ってくれて心地が良い。細い街道がアスファルト道に出た所が「沓掛」の集落である。そこに【沓掛牛方宿】があった。“沓掛”という名の地は日本のあちこちにあるが、どうやら急峻な坂道や峠付近、街道の分岐点や大河の渡し場に付けられた地名で昔は交通の要所によくある名前だそうだ。ここも日本海側から牛6〜7頭を引き連れて塩を運びながら急峻な坂「親坂」を登ってきた“牛方”達が牛とともに宿泊したのがこの【牛方宿(うしかたやど)】である。歴史の重みを感じる藁葺き屋根の建屋に興味が惹かれ、早速入場券を買って小さな木戸を開いて中に入った。中は天井が高く、広い土間には“かまど”と大きな“水がめ”がある。煤にまみれて黒光りしている太い柱や梁、わずかな光が漏れさしている薄暗い空間、しかし空気は外気とは全く違いヒンヤリしていて気持ちが良い。靴を脱いで部屋の中に上がる。最初の部屋は“いろり”付きの茶の間でその奥が客間になっている。2つ目の客間には“床の間”がついておりそこで大の字に寝転がる。裏庭から吹き抜ける涼しい風が肌に触れて気持ちが良い。

【沓掛牛方宿】
【親坂に入る手前の石像群】

誰もいない静かな客間で20分ほどウツラウツラしたであろうか。眠り込んではいけないと慌てて身支度を整える。外に出ると余りのまぶしさに目を開けていられない。強い太陽光線の中、牛方宿の周りには旅人は誰もいない。(10:30)アスファルト道を下り始めるとすぐに千国街道に入る分岐の角に石造物群があり、そこから「親坂」の急峻な下りになる。沢に沿って走っている急斜面の坂道には大小の岩が肌を見せており、その岩の間から清水が染み出てきてコケの生えた石の表面をジメジメに濡らし、ズッズッと滑りそうでハラハラしながら一歩一歩下って行く。途中清水が湧き出ている「弘法清水」の水場を通過し、そして次は眼前に突然現れた巨大な石「錦岩」の脇を通り抜ける。
【弘法清水】
【錦岩】

急な下り道の右側にはズ〜ット沢が並走していて、ザーザーと勢いよく流れ落ちる水音が聞こえてくる。この「親坂」を下り切って少し行った所に“千国街道”と書かれた古い石柱が立っていた。ここから「千国」の集落に入る。真っ直ぐ続く街道の両サイドに民家は在るものの人の気配は全く無い。ギンギンギラギラの太陽の下を一人歩いていると、何か西部劇映画でよく見たシーン“ゴーストタウンに一人で入ってゆく保安官の姿”を連想していた。

【「千国街道」の古い石柱】
【誰もいない千国の集落】

次第に民家が密集してくると、人の姿がポツポツと見られるようになりホットする。店の前で近所の奥さんらしい方が大声で話をしていたが、その丁度右側に【千国の庄史料館】があった。(11:00)私が近づくと話を止めて、私に向かって、「休んでいきなされ。千国番所の中を是非見て行って下さい」と薦めるが、その方は何と千国の庄史料館の入場券売り場担当のおばさんだったのだ。番所のたたずまいも立派で、おばさんが言うには、「この番所の裏にもう一つ館があってそれが史料館になっています」と言われると、「え!そんなに奥行きが有るのですか」と問いかけながら、すでに入館券を手にしていた。早速番所に足を踏み入れてビックリ。薄暗い部屋の中央に人が二人座ってこちらをジ〜ット見つめている。「ドッキ〜ン!」としたのだが、よぅ〜く目を凝らして見るとそれは“番所取締役人”の人形だった。番所を抜けて裏にでるとそこには大きな史料館があり、館内ではかつての暮らしぶりを再現されていた。解説によれば、江戸時代初期から松本藩の出先機関として【千国口留(くちどめ)番所】、いわゆる“関所”が置かれていたが、明治2年に廃止されるまで280年間にわたり、塩や海産物、穀物などの運上銭の徴収や人改めを行い街道の治安の為の“道中取締り”を行っていたとある。この番所の側では盆と暮れには【千国市】が立ち、近郷近在の村人で賑わい、まさに政治・経済・交通の一大中心地だったと説明されているが、今の街道の姿からは全く想像も出来ない。

【千国口留番所】
【あっと驚かされた番所取締役】

10分ほど掛けて館内を見学、外の庭も綺麗に整備されていて隅には“塩蔵”が再現されていた。塩の流通を調整するための貯蔵庫で、建物は塩で錆びるのを避ける為に金釘は一本も使用されていないという。ぐるりと巡って入口に戻ってくると【歩荷(ぼっか)茶屋】と名付けられた食堂兼お土産やの前で先ほど話をしていた女性のもう一人が待っていて私を店に誘う。もう昼も近いのでここで昼食を取ることにして「ざるソバ」を注文する。するとすぐにお茶と“つけもの”が出された。この漬物の量が余りに多いのに驚きと喜びを感じ、そしてその漬物の美味さに「さすがは信州だ!」と一人感心していた。

【番所内の塩蔵】
【千国口にて我が姿を写す】

ゆっくり昼食休憩を取った後、歩荷茶屋を出発し人影の無い千国の村落を下る。(11:45)暫く行くと道は突き当たって直角に左に曲がった所に「千国口」のバス停留所があった。なだらかな下り道を快調な足取りで進んでゆくと次第に視界が広がってくる。右下に国道148号線(糸魚川街道)が平行に走っており千国街道が県道から外れて左に折れ山道に入ってゆく分岐の所に出た。左に入るとすぐに「千国諏訪社」が現れる。本殿の裏側をすり抜けるようにして小道は次第に山の中に入ってゆく。
【右から国道、県道、そして左に入る街道】
【左に入ってすぐの所に「千国諏訪神社】

次に「源長寺」に出ると、ここから余りに細くてビックリするような脇の小道に入るようだ。道の入口を見落としやすいので「塩の道はそちらに入る」と矢印表示の看板が有って大いに助かる。この辺は普通の農家の裏道といった感じの小道を歩いている感じなのだが、全く手の加わっていない自然そのままの道で気持ちがいい。そして道の要所要所に「塩の道」の道標が立っているので歩く者には細道でも安心して歩ける。
【源長寺の脇の「塩の道」の案内板】
【昔のままの千国街道をゆく】

「大別当」の集落を越え、「小土山石造物群」の脇を通り、鬱蒼と生えた杉林の中を暫く急な下り道を降りてゆくと突然アスファルト道に出る。そこの地面には白いペンキで「塩の道はこのように行きなさい」とご丁寧に書かれていたのにはビックリ仰天。本当に一人歩きの私には心強いアドバイスであった。道なりに「三夜坂」を下りてゆくと再び国道148号線に出た。

【塩の道はこちら】
【小土山石造物群】
国道の両サイドには民家が密集しはじめていよいよ「北小谷」の集落に入ったようだ。地図によれば街道に並行して走る姫川の対岸に大糸線の北小谷駅があることになる。暫く国道を北に行くと左手に【小谷名産館】その隣に【小谷郷土舘】が並んで建っていた。郷土舘に入ると数人の観光客が居て何かホットした気持ちにさせる。(13:05)ここで一休みしようと“ホットコーヒー”を注文すると、私の前に座っていた学生風の二人組みが「こんなくそ暑い時によくホットコーヒーなど飲めるな」といった怪訝な顔をしていた。コーヒーを飲みながらこれからの古道の行程を再確認する。まだまだ厳しい山越えが残っているので長居は無用と10分ほどですぐに立ち上がった。しかし多少疲れ気味だった私にはこの時のコーヒーの味が本当に美味しく感じられた。
【地面に親切なアドバイス】

国道を北に進むとすぐに左斜めに入ってゆく千国街道・古道の分岐点に出た。古道は両サイドに切り立った山が迫ってくる谷間を姫川に沿って走っており暫し平坦な道が続く。「中尾」の集落に入ると道は次第に上りとなり山の斜面に寄り添うように建っている民家の脇をいくつか通り抜けると急に視界が広がりそこに「中尾阿弥陀堂」があった。お堂の前は広場になっていて3人の子供が遊んでいた。広場のお堂とは反対側の隅に「阿弥陀様の岩清水」と書かれた水のみ場が有った。子供たちが私をそこに誘って「この阿弥陀様の水はおいしいよ」と言いながら子供3人が先を競うように呑んで見せて、私にも飲むように勧める。ゴックンと一口飲むと、その冷たさが何とも気持ちよく「あ〜〜! うまい!」と声を上げると子供たちも大喜び。子供たちとお話を楽しんだ後、水のみ場の脇の上り坂を歩き始める。道はくねくね曲がりながらきつい上りが続くが、どうも進んでいる方角が違うようで気になり始める。道は次第に人里から離れて山の中に入って行くので、これは手元の地図から見ても“道を間違えた”と判断できたので先ほどの子供たちの広場まで戻ることにした。広場に戻ると子供たちは怪訝な顔をしている。そこで「おじさん、塩の道を歩いているのだが、道を間違えているのかなぁ?」と問い掛けると、ニコット笑って、「おじさん、道はこっちだよ」と何と阿弥陀堂のすぐ脇の小道を指差すのである。よく見れば阿弥陀堂の脇に道標が立っていて確かに矢印がそちらを指している。しかしこの道標の位置では塩の道を歩いて北上する人の多くが私と同じ間違いをするのではなかろうか。

【中尾阿弥陀堂・「塩の道ここだよ」】
【阿弥陀様の岩清水】

雑草の生い茂った細い下り道を子供たちが私の先陣を切って走って降りてゆく。道は杉林の中に入ると突然急な下りとなる。するとさっきの阿弥陀堂の広場の方から自転車に乗っていた最も年長の女の子の大声がした。「下におりちゃだめだよ〜〜」。すると私と一緒に降りてきた二人の子供は急な下り坂の手前でピタリと止まった。私は急な下り坂を垂直に降りるように下って、暫くして上を見上げると二人の子供が私に向かって「おじちゃん、また逢おうね」と手を振っている。私も「さよぅ〜〜なら、またどこかで逢おうね!」と大声で返事をした。急な下り坂を下り切るとそこは尾根のようになっていて視界が広がっている。後ろを振り返ると戸隠方向の連峰がくっきりと見えている。
【崖の上で子供たちが手を振る】
【後ろを振り返れば戸隠の山々】

さらに急な下りを一挙に降りると村道に出るが、道の両サイドに民家が繋がっていてそこが「下里瀬」の集落であった。全く人の気配の無い街中を歩くと一軒の雑貨屋が店を開けていた。中に入って炭酸飲料を買いながら店の人に塩の道・古道の道順を確かめる(14:20)。教わった通りに村道を左に入ると緩やかな上りの「車坂」が山の奥へと繋がっている。
【下里瀬の町並み】
【車坂の緩やかな登り】

次第に道は細く険しくなりこんもりと生い茂った大木が薄暗くさせて気味が悪い。突然に目の前の道がズレ落ちて無くなっている。右手にコンクリート製の電柱が大きく傾いて今にも谷に向かって倒れそうな姿にゾットする。もし今足を滑らしたらどうなるのか?と右下の崖下をのぞきたいのだが、覗き込むとそちらに吸い込まれそうなので怖くて見られない。道が崩れている部分はおよそ3メートルほどなので体を山側に預けて一挙に行ってしまえば何とかなりそう。しかしもしその2歩目でズズと滑ったらどうする。何度かケーススタディを繰り返し、一歩目、二歩目の足の置く位置をしっかり確認してから、呼吸を止めて一挙に突っ切った。何歩目かの足が道の上に着地したとき、ホットすると同時に背後から斜面を小石が落ちてゆく音が不気味に聞こえていた。(15:00)左に右にとクネクネと曲がる山道を登ってゆくと山の中腹にだだっ広い台地に出て車が通れる十字路のところに突然【幸田文 崩落記念碑公園】が現れて私を驚かす。
【街道を行く】
【幸田文 崩落記念碑公園】

公園の石にリュックを下ろして休憩を取ろうとするがどこにも日影が無い。そこに立っている説明板によれば、幸田文は日本の巨大崩落に関してルポルタージュ文学【崩れ】を書いた時の題材の一つとなった浦川沿いの崩落現場と書かれていた(稗田山の大崩落**)。確かに公園から見下ろす眼下の浦川では今でも大掛かりな砂防工事が行われている姿を遥か遠くに見ることが出来た。

【浦川の砂防工事現場】
【崩落で消えた塩の道の入口案内】
 
  **【稗田山の大崩落】世に言う日本三大崩落の一つと言われており、明治44年(1911)8月8日未
      明午前
3時に突如として起こった。4キロ余に亘って崩落した大土石流は浦川を流れ下って姫川を
      塞き止め、この一帯は壊滅的打撃を受けた。浦川と姫川の合流点から下流に広がる今日の“来
      馬(くるま)河原”は、かつては美田地帯として知られ街道往来の宿駅として重きを成した来馬宿は
      役場、学校などと共にその
中にあった。
      ちなみに他の二つの大崩落とは【富土山大沢崩れ】と【静岡県安倍川上流 大谷崩れ】。

街道は浦川を跨ぐ橋を渡ると川に沿って下りになるがゴロゴロとした大石が散乱していて塩の道そのものが姿を消している。道の要所要所には「塩の道こちら」の看板が立っていて助かる。砂防工事のダンプトレーラが走れるように埃っぽいジャリ道が作られているがそれに沿って浦川を下る。染み出た水が道のあちこちに大きな水溜りをつくり、その水溜りで発生しているのかアブのようなハエのような虫が私の顔の周りを飛び回る。手で避ければ避けるほど虫の数が多くなるような気がする。汗でベットリした首のところから虫が入ってきそうな気配で気持ちが悪い。早速東京から用意してきた“電池式虫除け器”を腰の脇に下げるが全く効き目が無いようだ。ハット気がつくと頭の周りをグルグルと黒い軍団が私を襲っている。これはキット今回の旅の出発前に読んだ本の中に書かれていた害虫“ウルル”であろうと直感した。その本によればウルルは牛馬や人を刺し、刺されると大きく腫れ上がり痛痒く、しつこく一週間ほど腫れが引かないこともあるので要注意と書かれていた事を思い出し、ビックリしてリュックから“虫除けスプレー”を取り出して回りに散布した。それでもウルルはしつこく攻めてくるので、逃げるようにしてジャリ道を走り下りた。今にして思えば全く刺されずしてあの場所を脱出できたことが奇跡のように思えてくる。

【遠く来馬温泉、来馬橋が見える】
【来馬諏訪社】

浦川が姫川に合流する「松ケ峰」の付近に来ると姫川の広大な河原が眼下に広がり、その遥か彼方に今日の宿「来馬温泉」の建物らしきものが小さく見えている。暫く下ってゆくと「来馬諏訪社」が現れやっと来馬村落に入ったことを確認した。(16:40)真っ直ぐ緩やかに下っている道の先の方を背が丸くなった小さなおばあさんがこちらに向かってゆっくりと歩いて来る。途中で立ち止まりこちらを眺めてから道を左に入ったのが見えた。お腹のところに大事そうに何かを抱えているような姿に見えた。おばあさんが入った路地の所にくると、そこは民家の玄関に入る階段となっていて、その所にあのおばあさんがにっこり笑顔でチョコンと居るではありませんか。思わず「こんにちは。暑いですねぇ」と挨拶をすると、「ほら、これ食べなさい」と前掛けを袋代わりにして抱え込んだ中から、今畑から取ってきたもぎたてトマトを差し出した。私はあたかも天からのお恵みのように感じて「戴きます」と手を差し出す。私の汗まみれの顔を見て気の毒に思ったのか「ほら、もう一つあげますよ」と大きく真っ赤に熟れたトマトを二つ頂いて、私は深く頭を下げてお礼を述べた。歩きながら夢中になってトマトにかぶりつく。うまい! 甘い! この果汁がゴックン、ゴックンと喉を鳴らして、たまらなく美味しい。あのおばあちゃんは坂道の先の方を歩いている私の姿を確認してから、すぐに玄関に入らずに私が近づくまでジット待っていてくれたのだ。何と言う思いやりだろうか。その心の優しさに目頭が熱くなる。

道は姫川の流れに沿って大きく右に曲がり始め姫川の遥か彼方の対岸に大糸線とその上に平行して走る国道が見えて来る。道の左側は山が張り出してきて来馬の民家が山の絶壁に張り付くように建っている。暫く進むと道は左にゆっくりカーブを切って今度は前方に「小谷橋」が見えてくる。小谷橋の手前、左手に張り出してきている山に包まれるように建っている今日の宿「来馬温泉・風吹荘」が姿を表す(17:10)。玄関を入ると若い女性が出迎えてくれる。こんな寂れたたった1軒しかない温泉宿に若い都会感覚の女将登場には驚いた。チェックイン後早速温泉に入って汗を流す。泉質はナトリウム・カルシューム・炭酸水素塩、塩化物温泉だそうで、お湯はタイルを赤サビ色に変えており、何か体に十分ご利益があるように感じた。
【来馬温泉・風吹荘】

いよいよ夕食の時間が近づき1階の食堂にゆくと先ほどの女将が6〜7歳位の女の子の遊び相手をしている。こんな山の中では近くに遊び友達はいないので、時々親が子供の相手をしているのであろう。女の子が私の方に興味を示して寄ってきたので、子供を介して会話が始まった。テーブルの上に用意されている料理の内容がこれまた洋風・和風の混合創作料理のようで、びっくりする程の料理の数が並んでいた。シェフは旦那さんだと言う。お話によれば、そもそもこの風吹荘は村営だったそうだが、経営不振から民営化に切り替わる時、人の縁で2年前に夫婦で千葉から赴任して来たそうである。しかしこちらに来た早々に北小谷にあった小学校が廃校となり、今は娘さんを毎朝車で南小谷小学校まで送り迎えをしているそうである。そんな話をしている時に追加の料理をシェフの旦那さんが運んできて料理の内容を丁寧に説明してくれる。本当に手の込んだ料理のようだ。そして味もまた最高であった。満腹感にひたりながら部屋に戻って明日の準備をする。

本日の歩行距離は 40,811歩、25.3Kmとなっていた。


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