続編『私のアルバム』

2005年1月に【私のアルバム】として私の幼年期から壮年期(後編)まで、つまり誕生から定年退職する60歳までの履歴を書いてホームページの自己紹介欄に掲載してましたが、この度それらに写真を加えてリアリティーを高めると共に、61歳から古希を迎える10年間を「老年期(前期)」として書き加え、次の3部構成にして編集をし直しました。

  【第1部】 誕生から学生時代まで

    第1章: 幼年期      (1〜7歳)

    第2章: 少年期(前期)  (7〜13歳)

    第3章: 少年期(後期) (13〜16歳)

    第4章: 青年期      (16〜20歳)

    第5章: 成年期      (20〜26歳)

  【第2部】 社会人となって

    第6章: 壮年期(前期) (26〜46歳)

    第7章: 壮年期(後期) (46〜60歳)

  【第3部】 翁の境遇

    第8章: 老年期     (60〜66歳)

【第1部】 誕生から学生時代まで

【第1章】 幼年期 

1944(昭和19)年 7月16日 文京区本郷田町(現在 西片)に長男として生まれる。生まれた年は 太平洋戦争の真っ只中、家の前の石垣には大きな防空壕があったそうです 。ウーーとサイレンが鳴ると私は口に鰹節をしゃぶらされて、綿入りのチャンチャンコにくるまれてその防空壕に入れられていたそうです。「泣いちゃぁ ダメですよ。 アメリカに見つかっちゃいますからね」となだめすかされ、一人暗い防空壕の中で 鰹節をピチャピチャとしゃぶっていたそうです。

戦争はその翌年の夏に終わりました。終戦後の混乱はそれはそれは大変だったのでしょうが、子

供には 米国支配下とか 物不足の苦しみは分かるはずもなく あまり強烈な印象は残っていません。しかし5円玉とチョコレート、チューインガムの記憶は鮮明に残っています。1951(昭和26)年 真砂小学校(現在 本郷小学校)に入学、おばあちゃん子に育った私は それはそれは”甘ったれ坊や”だったそうで、気が弱く、いくじのない弱虫だったそうです。とにかく入学式にもおばあちゃんに連れられて行ったというのですから。教室に入っても 私は教壇の先生のお話など耳に入らず、チョクチョク後ろを振り返りおばあちゃんが居るかを確かめていたそうです。
私の家は戦前は『甲子倶楽部』と称して 地域の集会場だったそうで 2階には大広間がある木造2階建でしたが、戦争に突入して その2階大広間は5つの個室に分断し そこに親戚、知人が住み込むようになり、共同台所/便所型の集団住宅に変貌していました。

私の家の前は 西片のお屋敷から下の町”本郷田町”に降りてくるS字型をした坂がありまして【石坂】と言います。坂の途中に大変に大きなお屋敷があり この敷地をよけるように道が曲がっていたのでS字の形になっていたようです。
この石坂の途中に文京区教育委員会が作った史跡説明の看板が立ていますが、そこには 次のような説明が載っております。

『新撰東京名所図会によれば ”町内より南の方、本郷田町に下る坂あり。石坂と呼ぶ”。ここ一帯は備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒組や御先手組の屋敷としていた。 
明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者が居住した。田口卯吉(経済学者、史論家)、坪井正五郎(考古学、人類学者)、木下杢太郎(詩人、評論家、医者)、上田敏 (翻訳者、詩人)、夏目漱石(小説家)、佐々木信綱(歌人、国学者) 和辻哲郎(倫理学者) など有名人が多い。その為 西片町は学者町と言われていた。
”交番の上にさしおほう桜さけり、子供ら遊ぶ おまわりさんと” (佐々木信綱) 』

<左写真説明>

【甲子倶楽部】左の写真は何と絵葉書に使われていた。この写真は大正15年の設立当時のもので2階は大広間でここで碁会、踊稽古や講演などの集会場だったらしい。我家の玄関は1階左隅。

<下左側写真説明>

45年目にして(つまり昭和45年)にこの家は取り壊されることになった。

<下右側写真説明>

昭和48年3月新築完成
(工務店:ミサワホーム)

2階建て右側2階が借家になっていて澤さんが入居。

【第2章】 少年期(前期)

私が小学5〜6年生の頃、この西片町は 大きな木々が群生しており子供の目には大きな山のようでした。夏ともなれば セミ、トンボ、チョウチョ、クワガタ、カナブン、そして背が七色に輝くタマムシも飛んできておりました。とにかく昆虫の宝庫でした。

当時は物も豊かではなかったので 昆虫捕獲器も自分たちで工夫して作った記憶があります。セミとりには モチ竿、そしてくもの巣竿、トンボは 糸の両端に小さな鉛錘をつけて それを空高く舞い上げると トンボがその錘を虫と思い食いついた瞬間にトンボにその糸が絡みつき 落ちてくるというスバラシイ捕獲法なのです。これでオニヤンマを捕まえた時などの興奮は今でも覚えています。チョウチョは 女性のナイロンストッキングを利用して作った網で捕りました。 家の前の防空壕のあった石垣の上にはカラタチの木が植えられており、そこはシジミチョウ、モンシロ、キアゲハ、クロアゲハ などなど多種のチョウチョが集まって来ておりました。そしてその山には くり、柿、いちじく、ビワなど野生の木の実、くだものが豊富であり 遊んでいる間の"おやつ"には不自由しなかったのです。 

その日捕まえた昆虫を夜寝るとき蚊帳の中で離すのが楽しみで、これは今は無き巨大なる【虫かご】だったのです。しかしお盆の期間だけは おばあちゃんから 「この日だけは殺生してはなりません。すべて逃が

してやりなさい。」と言われシブシブ外に放しました。こんなことを言いながら; 

  「おまえたち、きょうだけ自由に 飛んでゆけ〜〜、 飛んでゆけ〜〜」

きっとこの言葉は おばあちゃんが丁度そのとき玄関先で 乾いた”しらかんば”の枝とお線香とを一緒に焚きながら、

  「おじいさん、おばあさん、この明かりで おい〜〜で、おい〜〜で」

を真似していたのかも知れません。

この遊び盛りの頃、夕方5時を過ぎますと 近所の八百屋の小僧さんが大八車に野菜を乗せて売りに来て我が家の玄関先に止めます。近所の奥さん連中が出てきて そこで四方山会議が始まります。その頃の石坂はまだ舗装がされておらず、上り坂の一角が三角州のように開けていてそこで私たちは三角ベースの野球を日が暮れるまでしていたものです。当時はいかにこの坂を上ってゆく車が少なかったかを物語っています。しかし夕方になると ここでの野球を中断する出来事が起きます。

この西片町の山の上に グリーンホテルという西洋館風の建物があり、それが進駐軍に占領されておりました。この石坂でいつも三角ベースで遊んでいると 夕方ころ 米軍のジープが砂埃を上げて すごいスピードで坂道を登ってゆきます。ジープには数人の米軍兵とそれと同じ数だけの日本人の女性が乗っていて「キャーキャー」と騒いでいました。

特に印象的な姿は、女性の顔のなかの真っ赤にぬられた口が大きく感じたこと、そして私たちが ジープを追いかけると、チョコレートやチューインガムが バラバラバラっとばら撒かれるのです。夢中で走り 夢中で拾いました。時々黄金色にひかる穴の開いた五円玉も混ざっていました。

【第3章】 少年期(後期)

1957(昭和32)年 文京区立第二中学校(現在 本郷台中学校)に入学。入学生総数244名(男 136、女 108)で 一クラス 50名ほどで5クラス有ったのですから すでに【団塊の世代】(昭24〜25年生まれの世代)に突入する前兆が現れていました。この年の10月ソ連が世界初の人工衛星【スプートニク】を打ち上げていたのです。

私の中学時代はこれと言って強烈な思い出が無いように思うのですが、異性に対する関心が芽生え始めた時期として記憶に残っています。私の祖母には子供が無く 私の両親は養子として宮原家に来たのですが、もう一人 養子の”信子おばさん”がいました。信子おばさんは この頃銀座に【ナルビー】というバーを経営していましたが、時々 週末になると、おばさんを訪ねてこのバーに行くのが楽しみだったのです。

母から都電の運賃とおやつ代を手に握り締め都電の停留場「初音町」から「三田」行きの”2番”に乗り「有楽町」で下車、それから泰明小学校の向かいのビル地下1階のバー「ナルビー」に向かうのです。子供ながらこのバー行きが楽しかったのには理由がありました。

その日が 夜更かしができること、そしてバーが終わるとおばさんと一緒におばさんの家にて1泊できること、さらにはその夜、大人の女性群に囲まれて寝る快感が有った様に思います。バーが終わるまでの時間、カウンターの右隅に座り おばさんから渡される昨夜の伝票の束とソロバンで売上金額の集計をするのです。4回、5回と何度かソロバンで足算を繰り返せば正解は一つに絞られます。それでもバーの終わる夜中の12時頃までは長く感じたものです。

雨の激しい夜などは、「もう今夜はお客は来ないね」とおはさんが早々とバーのおねえさん達を連れて食事に出る時などはうれしく感じたものでした。

この頃は日本の景気も下り坂で【なべ底景気】などと言われていましたが 1960(昭和35)年に入るとカラーテレビ放送が本格開始、そして「国民所得倍増計画」が閣議決定(池田勇人内閣)され、景気にも活力が出てくるわけすが、そんな年の春 都立北園高校に入学。

【第4章】 青年期

北園高校(旧府立九中)は当時公立校としては珍しく自由な校風で制服はなく、各自自由な服装で登校ができました。当時はミニスカートばやりで女子高校生の服装にワクワク・ドキドキさせられ、北園高校の文化祭は他校からも人気が高く、多くの男子生徒が目の保養に来ていました。北園高校はバスケットボール、バレーボールが都立高校の中では強く、私はバレーボール部に入部しました。入部当時はまだ9人制で背丈のない私はレシーバーとして後衛に専念しようと思っていたのですが、2年目に高校バレーボールも6人制に変更となったのです。それに伴い練習方法も変わったのですが、私が誰よりも先に きれいに【回転レシーブ】が決められた時の喜びは今でも思い出します。

高校2年生の秋、関東甲信越大会(水戸市にて)にまでコマを進めることが出来たのですが 残念ながら2回戦で敗退。勿論私はレギュラーメンバーには入っておらず補欠員としての参加でしたが、貴重な体験が出来たと思っています。

ある試合でコートに立った時の経験。相手は都立戸山高校、私の心臓はドキドキドキと音打っています。相手からのサーブが唸るように自分に向かって来るではありませんか。ボールは目の前でわずかに右にカーブしました。アッ!! 慌てて床に落ちる寸前のボールに向かって体で飛び込み、握り締めた右手をボールの下に滑り込まします。ボールが握りこぶしに当たったと同時に高く舞い上がりました。 成功!

しかしその後が悪かったのです。私の目の中には お星様のようなキラキラするものが飛び回っているではないですか。これではいけないと何度も何度も目をこするのですが、こすればこするほど そのお星様が増えてくるのです。マズイ! 

そんなお星様とジャレテいる状況におかれた私は多分 試合の中からポツンと外れた存在だったのでしょう。相手コートに戻ったボールが 即相手からの次の攻撃に変わり 私の足元にアタックして来たのです。そのスピードに反応できず 私はただ立ちすくんでいたのです。当然速やかに選手交代をされてしまいます。その時 室内体育館2階からの女子バレー部のキャーキャーと響く声援が自分の緩慢なプレーに対しての非難の声ように聞こえていたのです。

高校3年になる前の年の暮れ、大学受験をひかえて進路打診がありました。私は当時これと言って強い目標があった訳ではないのですが どちらかといえば自分は文科系人間ではないと思い込み ”理工系”と進路希望を提出したのです。

すると即担任の先生からお呼びが掛かりました。 「宮原、おまえはこのままでは理工系は無理だ。進路を変えるか バレー部を辞めて受験に今から対処するかだ!」と忠告されました。自分ではどちらを取るかを決められず母が学校に呼び出されたある日の放課後。

バレー部担当の先生とクラス担任の先生が議論しているではありませんか。それも私の進路のことで。母がその脇でチョコンと座っています。私はうれしさと不安が折り重なって涙しながらしゃくりあげているではありませんか! 
丁度そのとき職員室に掃除当番で来ていた女子バレー部のメンバーに【しゃくりあげていいる自分】がしっかり見られてしまったのです。 それから受験勉強に集中するも時すでに遅しで基礎知識が出来ていないレベルで応用問題が解けるはずがありません。親には1年の浪人生活の了解を貰って 予行演習と理由付けして 私立大学 理工学部を4校受験するも すべて予測どおり不合格。

1963(昭和38)年大塚にある【武蔵予備校】に通い始めます。学校生活から浪人の生活に変わり100%が自由な時間になった訳ですが、生活のリズムだけは一定に保とうと予備校の受講科目で曜日のスケジュールを作り、受験科目での1年間の消化スケジュールを作り、それを毎日毎日こなして行く生活に自分をはめ込みました。はめ込み生活からの気分の発散は「映画の鑑賞」でした。洋画のロードショーは上野の映画街へそして邦画は神保町にあった【神田日活館】にはよく通ったものです。

実はこの年 11月には日米間のTV中継に成功し 皮肉にも11月22日 ダラスでの ”ケネディー大統領暗殺事件” をTV画面で興奮しながら見たのです。こうして私が映画に通っていた時期は TVの普及により、日に日に映画鑑賞者が減少し始め 翌年1964年の【東京オリンピック】によって映画は完全に斜陽産業への道を歩みだしていたのです。

【第5章】 成年期

1964(昭和39)年4月 何とか1年の浪人生活で国立千葉大学・電気工学科に合格できました。八月には米国のベトナムへの介入が本格化(トンキン湾事件)して世界情勢も曇り空になる予兆を表していたように思います。翌1965年2月 遂に米国は北ベトナム攻撃を開始し あの泥沼戦争にに突入して行くのです。浪人生活という拘束された生活から大学生の開放された世界に入った私は、教室での勉強より社会の中でのお勉強に興味を示して行きました。

東京オリンピック(1964年)の後遺症景気なのか、行け行けドンドン的風潮がはびこり、この頃から経済マインドが墜落し始めるのです。そんな大人の動きに抗議するかのように、学生たちが大学の構内大きな旗をなびかせ、大きな看板を立ててシュプレヒコールを繰り返していました。そんな荒れ果てた社会に嫌気がさしていた私はノンポリ学生に徹して午前中から仲間で【代返係】を順番に設定して、校門前の【雀荘】で過ごす日々の連続でした。

冬の夕方などは、西千葉駅前の「おでん屋台」でバクダン(コップ酒)を飲んで帰るのが日課となりました。部活は入学してすぐに自動車部に入り、先輩からエンジンのメンテ方法を教わり、1年後に直接武蔵小金井の自動車試験場で、確か当時しめて1万円2千円ほどで自動車免許証が取れたと記憶しています。

ライセンス取得の目的が達成されると自動車部を退部し、仲間と中古の観音開きのトヨペット(トヨタ)を購入、それを使って千葉から銀座に出張したものでした。実はこの頃【みゆき族】が大ブーム。。アイビールックに身を包み、雨が降るでも無いのに”細い傘”を持ち、銀座みゆき通りを闊歩したのです。当時は雑誌【平凡パンチ】を小脇に抱え、【VAN】や【JUN】と印刷された紙袋を引っさげて歩き、女性グループを見るやお茶に誘うのです。そんな時代にTVでは大橋巨泉の【イレブンPM】なんていう番組が流行っておりました。
大学3年で専門講座に配属になるのですが、私は溶接が専門の【第五講座】を選択、そこには日本溶接学会における”東の杉原、西の安藤”と言われている【アーク溶接】での第一人者 杉原栄次郎先生がおられ色々と勉強させて頂きました。西の大阪大学には【抵抗溶接】の大家と呼ばれた安藤先生がおられ、日本の二大巨頭のお一人の門下生であったことが誇りでした。四年目 いよいよ就職活動に入る時期になり、三菱電機、日本電装などが就職先の対象候補に上がっていたのですが、杉原先生から 「宮原、どうだ、大学院に残ってもう少し勉強してみるか」とお誘いのお言葉。親にも相談して大学院試験を受ける事にしたのですが、大学生活合計6年間で、この一年が何か一番勉強をしたように思います。
1968年(昭和43)年3月 学士卒論テーマは『風速のアーク安全性に及ぼす影響』でした。
大学院生活に入ったこの年の夏、是非日本の外を見てみたいと、大森実が主催する【太平洋大学】セミナーに参加したのです。このセミナーとは35日間の洋上生活にて勉強をしながら途中ハワイ島に寄りながらサンフランシスコまで行き、シスコに6日間滞在して、また太平洋を戻ってくるコースなのですが、参加費用は大学生が23万円。父親に相談し「社会人になったら返すので是非23万円面倒を見て欲しい」と説得し、いよいよ8月8日東京竹芝桟橋をギリシャ船【マルガリータ号(1万トン)】にて出港したのです。参加数800人1割ほどが社会人と少年が参加していましたが、殆どがピチピチの大学生。昼間、船の甲板上での授業も、大森実による「国際政治」、萩昌弘の「映画史」、そして梶山季之の「文学論」、そして米国人先生達による「英会話」などなどセミナー・コースは多彩でした。
有名人講師たちと夜な夜な太平洋上の甲板の上で酒を酌み交わしたながら夜中まで議論したことが楽しく思い出されます。このセミナーに参加して最後のアンケートに私はこんな様に回答しています。

@船でのドミトリー生活で得たことは:
団体生活の楽しさ、決断力の強さ。マージャン2回の結果はプラス4千円 マイナス2千円。

Aアメリカを見て感じたことは:
あらゆる面で個性美を感じた。家、服装、ビルの合間にあるグリーンは自然を大事にしている。

B太平洋については:
海は生きている。朝、昼、夕方、夜、それぞれ色を変える。そして不気味なときは、むくむくと活動を始める。        

C今後の抱負は:
もう一度アメリカに来る。今度は大西洋側のアメリカを見たい。

Dその他強く感じたことは:
日本の食事はすばらしい。女性も習慣もすべて日本が一番と感じた。だが外国に行きたい。

大学院2年目 杉原先生から「どうだ、宮原、君は商社が向いていそうだが、丸紅飯田に行ってはみないか。あそこならペーパーテスト無しで面接だけだ」と。その最後の「テストなし」の条件を聞いて、イッパツ返事「行きます!」と返答していたのです。この第五講座から2年連続で先輩が丸紅飯田に就職しておりました。その5月丸紅飯田の入社試験は面接を受けただけで、確かにその日の夕方には自宅に合格の電報が届いておりました。当時の日本は輸出大国にのし上がっており、総合商社の活躍は目覚しいものがありあましたが、商社はこれからは”販売に技術知識を加味して”と【セールス・エンジニア】を求めておりまして、私にとってはラッキーな時代だったのです。

修士論文テーマは『エンジン駆動方式溶接機のスローダウン装置に関する研究』でした。その論文の概要では、次のように書いています。

『従来のスローダウン装置の制御回路は、機械式なので故障が多く一般化されていない。
そこで本研究は、純電気式なスローダウン装置の開発を目  的とした。従って制御部はトランジスタ、SCR,ロータリーソレノイド等の電気制御素子を用いる事を主体として回路設計を行った。研究対象となる溶接機はDCとACの2種類とし、それぞれ簡単で高信頼性の回路を工夫した。

また溶接機は工場現場の過酷な作業環境で用いられる事を考慮して、振動や騒音、温度の問題に対する対策を研究した。更に安全性の点から交流溶接機に対してスローダウン装置に電撃防止回路を組み込む研究も行った。』

この研究は杉原先生の紹介で、あるエンジン溶接機メーカーと共同で行い、私は出来上がった制御回路をそのメーカーの工場に持ち込みテストを重ねて行きました。いわゆる【産学協同のプロジクト】であったのですが、現在では産学協同開発が一大ブームですが、当時では学生運動のひとつのスローガン「産学協同反対」時代であったのですから、やはり杉原先生は先を読んでいた立派な恩師であったのだと感心させられました。

その数年後して、会社で仕事中に偶然【日刊工業新聞】を開いていて、そのエンジン溶接機メーカーだ出した【自動制御付エンジンウエルダー 10名様モニター募集】の全面広告が目に飛び込んできてビックリ仰天。何と私の研究成果が市場に製品となって出ようとしているではありませんか! 
【第1部】 完

<TOPページへ>    <第2部へ>